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アラサーOLがアートでアレコレやってみるブログ

ブログ名変更しました(再)。アート初心者大歓迎! アートの面白さをナナメ上の視点から追求していくブログになります。

Giorgio de Chirico : タイトルがつけられない

タイトルで心が折れました。

さて前回の続きです。


キリコの夫人であるイザベラは「形而上絵画」を「五感で捉えられる現実を超えた、物事の本質を表現している」と語りました。

前のブログで「形而上絵画」の定義は書きませんでしたが、実は明確な定義がされておらず、現代美術用語辞典でも、その始まりが記載されているだけです。

ちなみにWEBLIOでは「神秘的な風景や静物のなかにメタフィジカル(形而上的)な世界を暗示しようとしていた」とあります。

 

では、キリコの思い描いていた「形而上」的なものって何?という話。

前のブログで取り上げた作品の世界観からは二つの異なった感情という無形のものを引き出されましたが、夫人のいう「物事の本質」ってなんでしょう。

 

彼はイタリア人の両親の元ギリシャで生まれ育ち、そこからイタリア、ドイツ、フランスを転々として最後ローマで人生の旅を終えます。

彼の中にはギリシャやイタリア(ローマ)への想いがあり、そこが出発点のように思われ、彼の作品から感じ取れる「郷愁」とは作品に描かれたギリシャ・ローマ時代のモチーフに描かれていると考えられます。

 

が。

正直現代の、近代の同郷の人が歴史的な過去の遺物であるモチーフを見て郷愁が湧くのでしょうか。

我々現代の日本人が十二単姿の女性や侍の姿、もしくは富嶽三十六景を見たところでそこから日本人としての誇りや郷愁の念を自然と心の底から湧きあげるのはちょっと一苦労です。

 

 

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葛飾北斎富嶽三十六景 神奈川沖浪裏>

※METにて個人撮影

 

ただ、そこに例えば自分の先祖がそのような風景を見て、人と接して、もしくは先祖自身がそのような格好をして生活してという風に想像するのではどうでしょうか。

そこはもうどちらかというと現実的な頭での理解というよりは、空想的な読み解きに心が動かされるという、ファンタジーな域に入ってしまいます。

 

それって小説を読んで、漫画を見て、映画を見て、その世界に入り込んで泣いたり笑ったり疑似体験をするような投身・投影と似ていませんか。

そしてそれこそ、「形のないもの」であり、実質的な質量的なモノを通した精神的な超自然的なやりとりのように思われます。

 

その精神的なやりとりが「物事の本質」かと聞かれると、それは個々の視点によるかなというのが正直な感想です。

哲学的な分野に入ってしまうので、ここでは横に置いておきたいと思います。

 

キリコは投影の仕掛けとしてそういったモチーフを組み込んだのでしょう(何故このモチーフ群に限定されたかは後で述べます)。

もし彼が、投影体験を鑑賞者に求めているのであれば古典主義への回帰も自然と納得ができます。というのも、写実性、より描いたものをリアリスティックに描く技法が古典主義にはあるので。

写実性を求めれば、絵画自体に現実味が増して人の共感度が増します。

ネオバロックにおいては、写実性を持ち合わせたうえで表現の強弱をつけているだけなので上の妄想との齟齬は発生しないように思われます)

 

ただ。

それを取り入れたことで、キリコ自身の作品に実際に共感度が増したかどうか、作品として大成したかどうかという現実問題は別にあります。

美術評論家の中では、作品としての成功については1910年代の、技術を手に入れる前の「形而上絵画」しか認められないのではないでしょうか。

その時代の作品だけが現代でも圧倒的に認識され、美術に興味のない人に対してキリコを知ってもらうときにはその時代を引っ張り出してきます。

 

なぜなのか。

それは「形而上絵画」自体の弱さにあると考えられます。

キリコはネオバロック時代の後「形而上絵画」へ戻り、自身の作品の模写を繰り返し、1910年代に描いた彼自身の作品は贋作であると、彼自身が売却した画廊や画商に宣言しています。

何故そんな愚行に走ったのか。

 

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模倣された元々の絵画 <謎を愛した男>1918年

 

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<不安を与えるミューズたち>1947年

 

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<不安を与えるミューズたち>1974年

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ちなみにこれらは一部で18枚くらい模写作品はあるらしいです。描きすぎ。

 

 そもそも「形而上絵画」はものすごく限定的な地域と時間で集約しております。

簡単にいってしまうと、1917年イタリアのフェッラーラという地域で、キリコとカッラによって提唱されて以降、計5名くらいで形而上派というものができましたが、できて4年で解体してしまっています。

芸術の歴史でいったら花火のような一瞬です。

ただ、その思考の仕方はシュールレアリスムに影響を与え、その先駆けとして多くの作家に影響を与えています。

(先に書いたギリシャ・ローマ時代のモチーフへの集中も結局物理的にも精神的にも限定的な地域での活動だったからこそだと思われます。最初から世界を視野に入れていたらもっと違うものがモチーフに組み込まれていたのでしょうか。)

 

言い換えれば、キリコたちが造った芸術活動のトンネルは入り口が豪華だったのですが、出口までの距離が異常に短く、更に出た先にはシュールレアリスムダダイズムといった別の道ができてしまっていたのです。

 

キリコ自身はなんとかその芸術活動のトンネルを少しでも長く、長くしようとしたのではないでしょうか。

 

古典主義の時代やネオバロック時代の絵画をもう一回見てみると気になる点がいくつかあります。

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<Self Portrait>1922年 古典主義への回帰の時代

 

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Vincent Van Gogh <Self Portrait>1887

 

自画像で有名なゴッホと比べてみると、キリコの作品には自身以外にも余計なものが描きこまれていることが一目でわかります。

描かれたキリコに立体感、現実感があるにも関わらず、背景だったり、横に描かれているキリコ自身の彫像だったり、目の前に置かれたみかんだったり、全てのアイテムが遠近感なく描かれていて平面的です。

もっと言ってしまえば、手前の塀と上に置いてあるみかん(A)、キリコ自身と彫像(B)、幕(C)、その奥の背景(D)がアニメのセル画のようにはめ込まれているような印象です。

というのも、照明の当たり具合がまるで異なる。

(A)は真上から、(B)は右上もしくは真正面から、(C)は左上から、(D)も左奥から光が差し込んでいるように影がとられています。それぞれが独立して存在するのです。

そもそも人物画とは、やっぱりメインとなってくるのは人物であり、背景などはあくまでも背景として主題を支える役割を担っています。

ただしそれがキリコの自画像には見られず、各々が主題であるべきキリコ自身と同じくらいに存在感を主張しており、何かしら意味があるのかと勘ぐってしまいます。

これってデスペイズマンの手法?(モノを奇妙な組み合わせで描く手法)。

深読みかもしれませんが、この描き方を見ていると、繰り返し述べているように、必ずしも先人と同じように古典主義に倣って作品を制作していたようには思えません。

あくまでも「形而上絵画」が進化を遂げるべく表現のバリエーションを広げるために古典主義に倣ったと考えてしまうのです。

 

※もちろんキリコが描いている自画像、人物画は多くありシンプルに人物が描かれているものもありますので、必ずしも全ての作品にこの妄想が当てはまるということではありません。

 

ただ、いくら延命装置にかけたとしても、「形而上絵画」は(結果論ですが)他の芸術主義の入り口にしかなりえず、一つの芸術活動としては余りにも体力がありませんでした。

そしてその持ち合わせた力も出オチといわんばかりの、瞬発力でした。

 

「形而上絵画」は20代の頃のキリコが過敏に感じていた社会情勢や時代の変わり目に対する不安感が暴発したように、キャンバスの上にぶつけられていたその粗野さや稚拙さに力があり、その力に鑑賞者は心を揺さぶられ、頭をフル回転させてキャンバスの上の絵の具を読み解こうとしました。

反対に年も技術も重ね、老練された、もしくは磨きがかかった像は画面で雄弁に語りすぎてしまって人の考える力を奪ってしまっていたのではないでしょうか。

 

彼は昔の自身の作品を模写して、これこそが真作宣言をしています。

それも彼にとって、昔の作品は「未完」「習作」であり技術を得て更新された最新作こそが「真作」と訴えたかったからではないでしょうか。

 

とはいってももうどれが真作でどれが贋作なのか分からない状態なので、最後の最後にやらかしてくれやがってという思いもあります。

 

単純にキリコといえばこれで1910年代の作品が出てくるのも、それ以降の作品の真偽が正直分からないってこともあるんでしょうね。

 

謎の画家ジョルジョ・デ・キリコはいかがでしたか?

個人的には昨年末からもやもやしていた人だったので、妄想を吐き出せてすっきりしております。

今回も大学レポート並の一万字級でしたが、お楽しみ頂けたら幸いです。