PABLO PICASSO-5 FINAL
キュビズム結論 後編入ります。
ちなみにですが、今更感がはんぱないのですが「キュビズム」という活動の呼び名は、
1908年に美術評論家のルイ・ヴォーワセルがピカソの「アヴィニョンの娘たち」を見たときに発した「フォルム(形)を軽視して、幾何学的な図式や立方体(キューブ)に還元している」という評論や、
著名な画家であるアンリ・マティスが作品を「小さな立方体の集まり」と酷評したことからきています。
Head 1907(すみません、pinterestからの引用なので作品名わかりません!)
そう、実は蔑称なんですよね。
それくらい当時の人たちにとってキュビズムとは受け入れがたい活動でした。
でもその評論は作品の外見的な分析の結果論であって、結局その当時ピカソたちがしたかったことというのは周囲に伝わっていなかったのです。
ピカソとパートナーであるジョルジュ・ブラックは、そのような逆境の中、キュビズムを進めるにあたって、壁に何度もぶち当たります。
それは「見ることの限界」「描くことの限界」です。
ここでは紛らわしいので、絵画に限定して話を進めますね。
絵画を描く際、必要なのは描く対象です。
ただ、ピカソたちは対象自身というよりは、それを捉えた自らの思考を描こうとしています。
ここで問題が。
まず対象を捉えるための一つの方法として「見る」行為がありますが、それは一人の二つの目でもって一つの視点からしかできません。
対象の一面しかその瞬間は見ることができないのです。対象は不動のものです。
だから、その対象の全体像を把握するためには、画家自身が動き、対象を全方位から見なければなりません。
そしてその次にその全てを描き出そうとしても1枚の平面的な画面の上にすべてを一体の対象として描くことは物理的に不可能になります。
文章のように言葉をつむいで一つのことを表現できればいいのですが、絵画ですので複数の面で構成される立体を平面に還元することはできません。
このように現実にそこにある有形のものを、思考という無形なフィルターを通してまた有形なものに変えるのはいくつかの障害があり、乗り越えるための手法を編み出さなければなりません。
セザンヌは、ピカソにとって唯一の師だと自身で言ったように、多大な影響をピカソに、キュビズムに与えています。
セザンヌ自身、1890年頃より、つまりはキュビズムの活動より前に「多視点による絵画」を描いています。静物画を描く際に、とある1点からの視点から描くのではなく、場所を変えて見えた対象に対する別の視点を画面の中に入れて奥行き感をなくす手法です。
それがピカソに多大なる影響を与え、結果、キュビズムの定義ともなるように、「複数の視点による対象の把握と画面上の再構成」を図る運びとなったのです。
ポール・セザンヌ《キューピッドの石膏像のある静物》1895年 油彩 カンヴァス
ロンドン、コートルード美術研究所
ですが、ここで対象の面を選び出す作業が発生します。
ここでやっと「表象の明確な強調」が出てきます。
最初、アフリカ彫刻から考え出したときに「明確な強調」は装飾によって施されるのかと思ったのですが、どう考えたって結びつかない。
そこで「明確な強調」は単に装飾をプラスしていく作業だけではなく、そぎ落とす作業に結びついていくのではないかと。
わかりやすい文章を書くとき、別の物事・事象に例える方法もありますが、一番はわかりやすいシンプルな言葉に集約するという方法だと思われます。
それを絵画に変換すると、細かな装飾を継ぎ足していくのではなく、クリアでシンプルな面、パーツに集約して、余計なものを捨てていくという作業になります。
そのようにして、観察から得られたパーツの中でこれはと思われるパーツを画面上に再構成していくことでやっと形をなし、作品が完成するのです。
《マンドリンを弾く女》1909年 油彩 カンヴァス
ここでやっと「アフリカ彫刻の時代」から明確に「セザンヌ的キュビズムの時代」へと転じられたのです。
が、~的キュビズムというように、ここでキュビズムは終わりません。
というのも、「セザンヌ的キュビズム」はまだまだ活動としては荒削りで、正直セザンヌの作品からのヒントを得て「描き方」の点で前時代のものを克服したにすぎません。
まだ明確なピカソたちの個人的な思考が表れていないのです。
次に「分析的キュビズム」の時代に移ります。
これまでパーツとパーツを張り合わせていたものから、「分析的」というようにそのパーツや画面構成への細やかな思考の巡回が見られます。
ここでやっと「アフリカ彫刻」から脱却したといえるのではないでしょうか。
《座せる裸婦》1910年 油彩 カンヴァス
ロンドン テイト・ギャラリー
「セザンヌ的」のときは、対象は対象であり、地と図の関係が画面構成において見て捉えられますが、「分析的」になるとその関係性が崩壊します。
いわゆる地である「背景」とみられるものが、図である「対象」の輪郭とぼやけて合わさり、対象を描くという行為から逸脱し、画面全体にピカソの思考が張り巡らされるようになります。
そこにはもう「何を描きたい」という目的ではなく、「どう描きたい」という思考がそのまま表出しているのです。
それは人がものを捉えるときに働く「知覚認識」さえも崩壊させ、「見る」という行為から派生した描写行動を一回自身の中でぶった切ります。
そうして捉えた対象の像を自身の中で構成し直し、像を像のまま排出するのではなく、絵画という一枚の面に還元してそれを排出するのです。
ああ言葉だと説明が難しい!!!
りんごという現実のものが目の前にあります。
前時代でしたら、そのりんごと後ろの背景(りんごが置いてある机だったり、背景にある壁だったり)を画家が目で捉えて、絵画の画面の中央に「りんご」の像として描き、それを引き立てる立役者として背景と机を描き出す流れが生まれます。
りんごは、絵画の中でもりんごとして存在するわけです。
セザンヌ的キュビズムの場合ですと、りんごがあり、その姿を全方位で捉え、後ろにある傷さえも捉えて、パーツに分け、それはりんごのパーツとして画面の中に再構成します。机も壁も同様です。
なので画面の中のりんごは、前時代では捉えられなかった傷のあるりんごとして構成されています。壁も机も同様。個体はまだ個体として存在します。
では、分析的キュビズムだったらどうか。
りんご、壁、机があります。それを全て全方位でパーツを捉えます。が、次に行う行為として壁のパーツも、机のパーツも、りんごのパーツも全て同一のパーツとして画家の思考の中に落とし込まれます。ここがセザンヌ的とは一番違うところ。そして、画家の中で一回、描く場所であるキャンバスのサイズの中にそのパーツをパズルのように当て込みます。そして出来上がった一枚の画面を実際のキャンバス落とし込むのです。なので、りんごも壁も机も全て一つの存在としてキャンバスには描かれてしまうのです。
おそらく、ここで考えられる疑問は皆共通していると思います。
「わざわざなんでそんなことするの?」
「何を描きたいの?」
ただ前述した通り、その疑問はナンセンスで、彼らにとって「描く」こと自体がすでに絵画を描く目的なのです。
だから、「わざわざなんでそんなことするの?」というのは前時代を打破しようとするキュビズムの芸術活動を全否定するような質問であり、「何を描きたいの?」というのは前時代のWHATに対する質問なので、HOWを求め続けたピカソに対しては当てはまりません。
さて、最後「総合的キュビズム」にいきます。
ただ、ここに関しては本当に本当に意味不明で、私自身考えることを拒否してしまいます。
だって描いてないんだもん。
ここで登場するのは「パピエ・コレ」と「コラージュ」。
パピエ・コレとは「貼り付けられた紙」という意味で、実際に新聞紙や楽譜、ラベルなどの実物の紙類をキャンバスに貼り付けたりしています。
《ヴュー・マルクの瓶、 グラス、 ギター、 新聞》1913年 貼り付けた紙 インク 紙
ロンドン、テイト・ギャラリー
描いてないやーーん (描いてはいるんだけど)
もう描いていないとなると範疇外なので余り詳しくは分析しません。
ここで言えるのは、分析的キュビズムでもまだ解体する対象であった地と図の関係自体さえも完全に壊し切ってしまい、現実のものを描くこと自体の破壊を進めるということでしょうか。
ちなみにキャンバス自体も規格である長方形の形を壊して楕円にします。
やりたい放題だなぁ。
《籐椅子のある静物》1912年
パリ、ピカソ美術館所蔵
そんなこんなでピカソ自身は、キュビズムを通して、芸術に対する自身の思考をそのまま作品に投影し、最後には描くことさえも若干放棄してしまうという大それたことをやってしまうわけです。
ここで思い出していただきたいのが、ピカソ自身は作品を作るために作品を作っているのではなく、あくまでも芸術活動の研究によって伴った副産物として作品ができたということ。
ここまでくるとなるほどって思いますよね。
そりゃあ10万点くらいの作品数になるのもわかります。
どうやら「総合的」の後に「ロココ的」というものが続くらしいのですが、なんか色々ぶち壊したり取り入れたりしたのでしょう。
本当に疲れたので2-3年後にまた情熱が湧いたら書きます。
最後ばっくりとなりましたが笑
奇怪な作品を作り出し続けたキュビズム、そしてピカソの断片でもお分かり頂けましたでしょうか?
ただしこれはあくまで私自身の妄想的見解なので、知識豊かな方々から見れば陳腐なものかもしれません。
ただただ皆様、長い長い文章にお付き合い頂きありがとうございました。
一回ピカソに関する感想編で色々ぶちまけたら、仕切り直します。