PABLO PICASSO-2 / AFRICAN ART-1
キュビズムについて語る前に、ここは調べておきたいなと思ったのが「アフリカ彫刻の時代」。
なかなか本題のキュビズムに入れなくてごめんなさい笑
ピカソは1907年に民族博物館にてアフリカの彫刻、お面を見て、キュビズムへ向かうインスピレーションを得ます。そこで始めたのが、「アフリカ彫刻の時代」です。
この時代はどうやらアフリカ彫刻が流行した時代らしく、様々な芸術家たちがインスパイアされていたみたいです。
さて、文献を調べる余裕も時間もなかったため ネットサーフィンで諸々調べ(うーんクオリティが低くなるよぅ)、そもそも何故ピカソがキュビズムを確立するにあたっての導入口がアフリカ彫刻だったのかというのを考えてみました。
完全に学生レベルの考察なので、あしからず~。
で、私に困ったことに全くアフリカ彫刻に対しての知識がなく笑
むしろあんなおどろおどろしいものを直視できず。
METで対峙した、懐かしきオセアニアの先住民の人たちによる作品にも単純な恐怖しか感じませんでした笑
本当に恐怖を感じながらメトロポリタン美術館にて撮影
METで最初に改めて感じたことは
「なんでローマ彫刻のあんな人間が人間の形をしているのに対して、オセアニアやらアフリカやらは化け物みたいなものばかりなんだろう」
と。自分のまっすぐな意見にはいつも驚かされます。
考えてみたんですが。
ざっくり言ってしまえば、ローマ、エジプト、中国など、統制者がいて政治があって宗教があって男尊女卑があれど各々で日々の仕事を担っていた地域の芸術(今の時代からみて芸術として区分けされるもの)の役割は第一に「伝達」だったんですよね。
壁画や壺など形状はどうであれ、日々の仕事・生活の様子を描いたり、宗教・統治の流れについて後世に、もしくはその時代の多くの人々に伝えたりするべく、なるべく具体的に描かれていたのでしょう。
もちろん、装飾という役割もありますが。(祭祀用、王政を擁護するための象徴など)
だから人間が人間として描かれて当然なんです。
よくローマの神話に登場してくる神々も絵画の中では人間の姿をしていますが、それも人々に共感・理解してもらうためだったんじゃないでしょうか。
彼の出た杭はもぎとられてしまったことにアンニュイを感じながらメトロポリタン美術館にて撮影
では逆にそうでなかった地域(ここではアフリカやオセアニアなどの地域を指します)はといえば、今現存している芸術品はほとんどが祭祀用といっても過言ではありません。
その品は限定的なコミュニティで一時的な時間・空間の中で単一言語として使用されることが多いといえます。
自分たちの祖先の魂を鎮めるため、神に仕えるため、赦しを乞い、自分たちの今の生活をより豊かにするための祭祀が、数多くある部族の中で行われてきたわけです。
となると、その祭祀のための品がどのような姿をしているのか?
一部では写実的な人々の営みが表現されているかもしれません。ただし、ピカソが、1900年代初頭に多くの芸術家たちが魅了されたのは、私がうへぇってなってしまうようなものだったのです。
出典元:http://ameblo.jp/pieropieropiero/entry-11453549022.html
それは、自然界にある姿・形を心の目を通して見て、頭の中、心の中で描いた抽象的な造形です。
なんのこっちゃと。
人が何か新しいものを作るとき、ゼロから作り出す人もいますが、大多数が今世の中に存在するものをベースとします。
それは大昔も同じだったのでしょう。
アフリカ彫刻のベースは人、もしくは動物です。それらは彼らにとって身近な存在でもあるし、命の危険にさらされる畏れる存在でした。
しかし、それを写実的に描いて、造形してしまっては、今そこに存在する生身のものと同一の存在となってしまいます。
それですと、祭祀は先ほど述べたようにちゃんと目的があって、生身の人間とは異なる存在との接触を図るために行う儀式になりますので、手段としては適切ではありません。
なんとゆーか、乱暴な話、幽霊に会うためには幽体離脱しなきゃだめでしょ的な笑
生身の人間でも見れる人いるけどそれって特殊能力じゃん、SPECじゃん、だったら一般人も会えるように方法考えようよ。と。
それで一番の方法はお面・仮面だったわけです。
日本でもこわい能面ってありますよね。
あちらも儀式のときに神をその被った人におろすためのツールとして使用しています。
ではその面には人間そのものではなく、何を描くの?という話ですが、それは神様、もしくは精霊、御先祖様の姿なんです。
それらが造形されているからこそ、それを被ったときに人は生身の人間ではなく、神様、精霊、御先祖様と同じ存在になることができると考えられたわけです。
それではどのように神様たちを描くの?造形するの?
ここでやっと最初の言葉に戻ります。
自然界にある姿・形(=人間・動物)を(お面を作る人の)心の目を通して見て、頭の中、心の中で(神様、精霊、御先祖様として再度)描い(て、別のものに歪めた、変え)た抽象的な造形(を作りだすの)です。
そのため、彼らは「そこに現存するリアルなもの」より自分たちの「精神性によって歪められたもの」のほうが造形にはぴったりだったのかもしれません。
ただこちらは別の論でも話すことができます。
別の面から見たら、「そこに現存するもの」というのは神様が造形したものであって、それは神聖なもの、畏れ多いものです。
なのでそれを自分たちの手で同じものを作ってしまったら、神と同じことをしてしまうために彼らにとってみれば大罪を犯すことと同じです。
そのため、一旦自分たちの中に落としこみ、自分たち人間の頭で考えた姿をこしらえなければ、道義として通用しなかったのかもしれません。
となると、その仮面に造形された人間・動物の姿こそが彼らにとっての「リアル・現実」であり、日常生活の中に入り組んだ祭祀の行事は、神の存在を認めたうえで神とは反対の自分たちを認識・確認するための大事な行事であった可能性もあります。
ただ、これは前者はキリスト教のヤハウエ的な、後者はバベルの塔的な近代的な宗教のフィルターを通した見方かもしれません。
正直今初めてアフリカ彫刻とそれに纏わる祭祀について考察を組んだため、(しかもキュビズムを通しての視点ですし)専門家の方々から見たら「ばかちん!」って言われちゃうかもしれないけど、
あくまでも私個人の見解としてご了承頂ければと思います。
じゃぁその精神世界のやりとりをピカソが見出して、キュビズムに取り入れたの?という結論になりそうですが。
ごめんなさい、完全にこちら序章です。
前ふりなんです。
でも大事なところなんです。
ということで長くなったので次回に回します。